人と違う生き方をするということ。
昔からの生きづらさゆえに日々色んなことを考えて生きていますが、
人と違う生き方をするということについて書きたいと思います。
私は昔から「常識的」というものと真逆を行く質で、
むしろ皆が同じことをしてることに違和感を持ってしまうような典型的な社会不適合者でした。
学校とかでみんなで群れて同じようなことをやっているのを見たり、
流行りものに乗っかっているのを見たりすると、
それって本心なの?ただ流されてるだけじゃないの?
と思って一歩引いて見てしまっていました。
(もちろん全員が全員そうではないと思います)
その結果が今の状況(仕事をドロップアウトし、未だ無職)に繋がっているとは思いますし、なにより昔から友達というものがいまいちできません。
価値観や考え方が一般的な人とずれていたり、それが元でコミュニケーションスキルも低いことが原因だとは思っています。
ちなみに、人と違う生き方をしたくてしているのではなく、したくなくてもそうなってしまうんです。
どうしてそういうことに違和感を覚えてしまうのか、どうして普通の人のような価値観や考え方ができないのか、それは私にも分かりません。
正直、苦労の多さも考えれば普通の人に生まれてきていた方がよっぽど幸せだったんじゃないかと思います。
かといって普通の人もそれなりの苦労をして生きていることは分かっています。
ただ、苦労の質は違うかもしれません。
(どちらが大変かという苦労自慢をするつもりはありません)
民主主義社会ということもあり、社会の価値観は多数派の価値観に影響を受けます。
そうなると、自然と少数派の人達は社会の価値観とズレることになります。
これはどちらが悪いといかいう話ではなくて、社会とはそういうもので仕方がないのだと思います。
特に日本は同調思考も強いため、人と違うということは日本社会で生きていく上で大きなデメリットになります。
人と違うということは、「あいつは変なやつだ」「変わってる」「嫌なやつ」「嫌い」といったことに結びつきます。
私もこれまで何度となくそういった奇異の目で見られる経験はしてきました。
個性的であることと人と変わってることは同義ではありません。
人の望む範囲を超えると、一気に「嫌い」の領域に入ります。
人と違う生き方をするということは、これが顕著になります。
特に働き方については保守的な文化もあり、一部では会社員至上主義に近いものがあったりとあまり許容的な感じではありません。
みんなと同じように就職活動をし、みんなと同じように働いて、みんなと同じように苦しんだり頑張ったりして、みんなと同じようにお金を稼いで、結婚して、年をとって、老後になって、死んでいきます。
でも社会不適合者とはそれができないんです。
それがしたくてもできなかったり、そもそもそういう生き方がしたいと思えなかったり、各々の理由があってそれができないんです。
そうなると、今度は社会のバッシングがきつくなります。
「どうしてみんなと同じように働けないのか」
「どうしてみんなと同じように生きられないのか」
「どうして君はみんなと違うんだ」
そして、「嫌い」の扱いを受けます。
社会的に排除されていきます。
人と違う生き方をするということは、多くの場合ネガティブなものだと思います。
でも、それが良いとか悪いとかの話ではなく、そうしたいとかしたくないに関わらず、そうせざるをえない場合が多いと思います。
そうなってしまう何らかの要因が背景にあるのだと思います。
言ってしまえば必然的なことだとすら思います。
遺伝子に組み込まれているのかもしれません。
脳がそういう作りになっているのかもしれません。
社会構造の問題かもしれません。偶然的なものかもしれません。
理由はそれぞれあれど、そうなってしまう何らかの要因があるのだと思います。
少なくとも、個人の意思や根性などでどうこうできるレベルの問題ではないと思います。
問題の深さや複雑さを思えば、そんな簡単なものではないでしょう。
それでも、結果として現に人と違う生き方をする自分がいます。
もはや原因を考えても仕方のないことかもしれません。
そんな自分にできること、すべきことはなんでしょうか。
ただただそれを考えます。
悲観してても現実は何も変わりません。
やれることを考え、実際にやっていくしかないんです。
たとえ味方が誰もいなくても、答えが見つからなくても、辛くても。
「生きる」ということは時にそういうことなんだと思います。
最終的にうまくいく保証なんてもちろんありませんし、最悪どこかで野垂れ死ぬことになるかもしれませんが、私はそれまで精一杯やれることをやって生きます。
その時は人それぞれある寿命が短かっただけです。80年生きようが、20数年で死のうが、長いか短いかの違いで良く生きたかどうかはその間の質によります。
「自分は精一杯生きた」と思って死ねれば、不本意に時間だけの生をまっとうするよりよほど良いです。むしろ、言ってしまえば私にはその選択しかできないんです。
こんな自分ですが、自分なりに精一杯「良く」生きていきたいと思います。