虚しくなったから吐き出す
改めて、自分の人生の虚しさについて考えている。
今、自分には何があるんだろうか。
欲しいのに無いものが多くて、虚無感や孤独が募る。
他人との人間関係がない。今ではもう殆ど無い。
学生だった頃は、クラスが同じとかサークルが同じとかで自然と友達や彼女はできた。
でも、学生じゃなくなると、そういった自然な付き合いは中々無くて、例え会社でも利害関係があったりして純粋に付き合いにくくなる。
まして大人になると仕事や結婚など現実に忙しいから、それなり意識が皆シビアになっていると思う。
自分にとっての損得をこれまで以上に嫌でも意識せざるを得ない。
好きか嫌いかがはっきりしてくる。それを吟味している時間もない。
未だに自分にとっての世界は一瞬足りとも気を抜けない危険な世界で、他人にはビクビクしているし、気を抜くと殺される、くらいの感じに見えている。
それだけ子供の頃に植え付けられた強烈な恐怖や不安があるんだと思う。
努力とかストイックに見られるけど、本当はただ怯えているだけ。
不安で気を緩められないから、寸分の隙もなく活動している。
そうしないといけないと思っている。
でも、そんな生き方が本当は違うんじゃないかとは薄々思っていて、でも実際のところがわからない。
自分が生きてて良いのか死ななきゃいけないのかも21歳になるくらいまで真剣に悩んでいた。
今では生きてて良いんだなとは思っている。でも当時は本気で死ななきゃいけないと思っていて、さっさと死ねない自分を責めていた。
誰かに生きていて良いんだよって言ってもらえたら良かったのかもしれないけど、あいにく感情や存在を拒絶されたり否定されたりばかりで、とても自分を肯定的に捉えることは難しかった。
子どもなんてそんなもんだよな、と思う。弱いよ、そりゃ。
今では生きてて良いとは思えていても、やっとスタート地点に立ったくらいの話で、言ってしまえばたいていの幼稚園児や小学生ですらとっくにこの位置には立っている。
だから、それを取り返すのにはとても大変で、ましてそれ以上の「自分への自信」を身につけようとなれば、一層大変になってくる。
ただ、世の中には年をとってもずっと自分の呪縛から逃れられない人もそれなりにいると思うから、そう思うと自分は感謝しないとなと思う。
最近はやっと”ゆっくり歩く”こともできるようになってきた。
(これまではゆっくり歩くと罪悪感を感じてそれができなかった。
無意識だったけど、それだけ昔急かされたり怒鳴られたりしてきたんだと思う。)
たぶん、友達ができない人って性格が悪いとか話ベタってより、他人と関係性を築くこと自体に障害を抱えているんだと思う。
自分がまさにそうで、まずリラックスして人と話すことさえできない。
とても怖い。他人が怖い。
それに、面倒くさいし疲れる。なぜなら強い緊張状態を強いられるから。
こんなんだから、人と話したいようでいて、本当は無意識に避けてる。
だから、友達ができないのも必然的なんだと思う。自分がそれを求めているから。
この部分が病的に自分の中に根付いていて、しかもコイツがしぶとくて仕方がない。
むかつくくらいに頑固に自分の中にある。頑なに出て行ってくれない。
だからもう諦めてきてはいる。
もう友達とか恋人とかそういうの自分には無理なんじゃないかなって。
こんな困難抱えている訳だから、この先一生一人で過ごしていくしかないかなと。
ただ、もしそうならそんな人生に何の価値もないよなと思って死にたくなる。
(ここまで考えが極端なのは単純に疲れだろうけど。)
もう家族の顔も忘れてきているし、別にいなくてもなんとも思わない。
昔から会話もなかったし、ずっと一人だったからそれが普通。
でも世間的には家族と会話があるのが普通なんだよなと思うと、たまにびっくりする。
それがどんな感じなのか分からなくて、どう言っていいか分からなくてたまに相手に申し訳なくなる。
正月に実家に帰るとか、なんで帰るのか分からない。
でも自分がこの先もし家族を持つことがあれば、きっととても大事にすると思う。
そう思うと、本当は自分も大事にされたかったんだろうなとは思う。
考えたって意味の無い無駄な話だけど。
無駄だと分かっているのに時々考えてしまうのは、人間の性なんだろうなと思う。
もうなんでもいいや。(疲れてきた)