ぼんやりブログ。

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「◯◯は甘え」という言葉の真理:(1)それは本当に「甘え」なのか

※この記事は「◯◯は甘え」という言葉について、それは本当に甘えなのか、

またそういった言葉が生まれる背景とは、そしてその甘えとされる状況から

脱却するにはどうすれば良いのか、を考察するためのものです。

あくまで一個人の捉え方、考え方によるものなので、

人によっては考え方の違いから不快な思いをする可能性もあります。

また「◯◯は甘え」という考え方を否定するための記事でもなく、

むしろその考えにも一定の正しさがあるとした上で、

その「甘え」から具体的にどう脱却して行くかを考察するための記事です。

前置きが長くなってしまいましたが、上記についてご了承頂いた上でお読み下さい。

 

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よく「◯◯は甘え」という言葉を目にします。

 

 

例えば「鬱は甘え」「ニートは甘え」「不登校は甘え」「自殺は甘え」など、

特にネットの世界ではよく目にする気がします。

 

 

状況としては、そういったことに悩んでない、もしくは乗り越えた人が、

そういう悩みを抱えている人に対して、または裏で言うような感じです。

(もちろん状況としては様々あります)

 

 

 

 

しかし、それは本当に「甘え」なのでしょうか。

 

 

当人達の意志の弱さや、怠惰な気持ちが引き起こすことなのでしょうか。

 

 

私には「甘え」の裏に潜む複雑な背景、事情があるように思います。

 

 

 

 

この記事では状況理解のために、その「甘え」とされる状況に至る背景、

そしてそれは本当に「甘え」なのか、について考えてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦後一層急速に発展を遂げた現代社会で、

技術的にも、文化的にも、成熟した世の中になりました。

 

 

生活は豊かになり、平均寿命は延び、社会システムも高度化を遂げ、

グローバル社会、共生社会といった数十年前とは違った状況になってきています。

 

 

しかし社会が複雑化、高度化を遂げる中で、

同様に様々な社会問題についても顕在化するようになってきました。

 

 

その一つがメンタルヘルスや精神的な側面に関わる問題です。

 

 

特に日本ではその国民性もあってか鬱といった精神的な問題の根が深く、

ストレス社会と称される現代においては、常に問題視されてきている事柄の一つです。

 

 

 

 

しかし昔がストレスの無い時代であったかというとそうでは無いと思いますし、

状況は違えどその時代その時代でストレスはあったと思います。

また、同様にメンタルヘルス等に悩む人もそれなりにいたことだと思います。

 

 

その中で社会が成熟しそれまで "問題とされていなかった" 問題が解明されるように

なり、急速な精神医学の発展等の中で、昨今の話題に上がっているのだと思います。

 

 

 

 

それまで理解のされていなかった種々の問題が、

科学が進むことで理解されるようになってきています。

 

 

鬱、社会不安障害アダルトチルドレンPTSD

ADHDアスペルガー症候群自閉症等の発達障害やLD等の学習障害

不登校ニート、いじめのメカニズム、人見知りや対人不安、

など本当に様々あります。

 

 

科学の進む以前の昔では、そういったことに対する解明や理解が進んでおらず、

本人のやる気の問題だ、といったような捉え方も一般的だったのかもしれません。

 

 

しかし精神医学も進み、科学的に根拠のある形で様々なメカニズムが

解明されるようになって、社会的にも広く理解がされるようになってきています。

 

 

 

 

しかし現状、例えば鬱に悩む人もいれば、全くそのような問題もなく、

ましてや鬱に悩む人を甘えだと考える人も少なからずいるように思います。

 

 

「鬱は甘えだ」「ニートは甘えだ」「不登校は甘えだ」

 

 

こういった問題に理解のある人であれば、その背景に潜む様々な問題、

特に社会システムに起因するような大きな根の深い問題があることについても

考えが及びますが、人にとってはただの甘えにしか見えないのだと思います。

 

 

 

 

しかし、それは本当に甘えなのでしょうか。

 

 

そもそも、甘えとは何なのでしょうか。

 

 

 

 

むしろ、鬱で苦しむ人を見てみると、甘えどころか真面目で一生懸命な人が多く、

逆に努力量としては頑張り過ぎているくらいの人が多いと思います。

 

 

不登校の人はみんなただただ楽をしたくて学校に行かないのでしょうか。

むしろ人間関係や学習上の問題など複雑な事情があってこそなのではないでしょうか。

 

 

ニートの人についても、根っから働く意志もなく、楽しそうに過ごしているでしょうか。

むしろ、働く意志も無くしてしまうような背景があり、

心情としても決して心地よいものではないことが多いのではないかと思います。

 

 

 

 

これらが本当に自由意志による甘えであれば、当人も甘えている以上楽であったり、

楽しいといった気分なのではないかと思います。

 

 

しかし現実はそうではなく、むしろ人一倍悩んでいたり、

辛い思い、苦しい思いを抱えていることが多いのではないでしょうか。

 

 

これは、本当に「甘え」と称することが正しい状況なのでしょうか。

 

 

 

 

もちろん、社会的に立派に過ごしている人の中には、並々ならぬ努力や、

後ろ向きになる気持ちと闘いながら必死に過ごしている人も多くいると思います。

 

 

そのような人達からしたら、自分達も必死に頑張っているのだから、

人によって大なり小なり事情があるとはいえ、それを理由に許されることではない、

ということもあるかもしれません。

 

 

もしくは、どのような事情があれ社会はそれで許してはくれないよ、という意味も

あるかもしれませんが、それは正確には「甘え」と称する理由にはなりません。

 

 

 

 

実際、いわゆる「甘え」とされる状況から、本人の必死の努力で前に進んできた、

という人もそれなりにいると思います。

 

 

だからこそ、そういった状況で立ち止まっている人に対して、「甘えだ」と

感じてしまうのだと思います。

 

 

 

 

しかし、一人一人の事情は計り知れない以上、

自分もできたのだから君もできるはずだ、という理論は成り立つのでしょうか。

 

 

例えば、体が丈夫な人がスポーツを頑張るのと、体が弱い人がスポーツを頑張るのは、

努力次第で同じ程度のレベルまで向上できるのでしょうか。

 

 

男性がみんな努力次第で女性のような細かい気配りができるようになるでしょうか。

 

 

身体的にも内面的にもこれだけ一人ひとり違う人間が、

みんな努力次第で同じようになれるのでしょうか。

 

 

この理論には少し強引さがあるような気がしてしまいます。

 

 

 

 

また、もし本当にそう考えている訳ではなくて、ただお前のことなんか知らないよ、

勝手に頑張れよ、ということであれば、そんな乱暴で一方的な意見はありません。

 

 

その意見自体、思いやりの無い、言った本人のための言葉でしかない以上、

それ以上でもそれ以下でもない言葉です。

 

 

 

 

ここまで考えてみていわゆる「◯◯は甘え」とは本当に甘えなのか。

そう一言で片付けられる言葉なのか、今一度疑問に思います。

 

 

もっとその奥にある根深い事情があるように思えてなりません。

 

 

 

 

 

 

また、次の記事では、より状況理解を深めるために、

「◯◯は甘え」という言葉を発する側の心理について考察してみたいと思います。

 

彼らはなぜそう思うのか、どのような理由や目的があってその言葉を投げかけるのか、

このことについて一度考えてみたいと思います。

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