ぼんやりブログ。

ゆるーく生きていたい。考えたことなどを書いていきます。

劣っていることは悪いことなのか

この問題については昔から考えていて、劣っていることは悪いというのは、それは世の中からしたらそうかもしれないんだけれど、当事者からすればそれは辛いなと思う。

自分自身、学生時代は勉強が全然できなくて努力しても赤点だった頃があったり、精神的に落ち込んで抑うつ状態が8年余り続いたり、他にもどれだけ頑張っても解決できない問題が沢山あったりした。

こう言えば、努力が足りないとか、才能がないとか、大変だね、とか色々なことをそれぞれの人が思うと思う。

それは、どれもそうかもしれないし、どれも違うかもしれない。

 

 

「世界は弱肉強食だし、現代は資本主義社会なのだから、優れているものは生き残り、劣っている者は淘汰されていくべきなのだ」という説を、とても気が重く考えていた。

もっと言えば、それならば、優秀じゃない自分はこの世界から消えた方が良いのではないか、生まれてきてはいけなかった存在なんじゃないか、ともよく考えていた。

実際、優秀な側も、劣っている側も、こういう考えの人は世の中に多いと思う。

 

 

けれど、優れているか劣っているかは社会的な基準と、生まれ持った遺伝子や環境が左右する。

どういうものが優れているとされる世の中なのか、そして、それに見合ったものを得て生まれてこれたか。

もちろん本人の努力も大事とはいえ、その努力ができる土台としても、心身ともに健康であったり、家庭環境が良かったり、生育環境が良かったりすることは重要だと思う。

例えば、何らかの障害を持って生まれた人や、日本はまだいいかもしれないけれど、紛争地域や貧困国で生まれた人、家庭環境で言えば親が毒親であったり、学校でトラウマになるような経験を抱えたり、

逆に良い例としては身体能力や知的能力が遺伝的に高かったり、両親に十分なお金や教養や愛があったり、学校では良友に恵まれたり恩師に出会えたり。

もちろんその後の努力が重要だが、努力できるかどうかには、これらの土台が大きく影響すると思う。

けれど、こう考える人というのは、得てしてこういった説を必要としている人、すなわち「全ては本人の努力次第」じゃ困る人達や、世の中の山積している問題に対して社会的な原理で物事を考えられる頭が良く知的好奇心の強い人達くらい。

それ以外の人にとっては"考える必要がない"から考えなかったり、逆に"努力次第でなんとかなる"という説の方が都合の良い人は、大いに説き伏せようとしてくるだろう。

 

 

しかし、そもそも劣っていることが悪いというのは、責任論的な話なんだと思う。つまり、それが原理的にどうかとかいう話ではなく、優れている者が益々の生存確率を上げるための生物的本能(俺は悪くない、お前が悪い)による自然な感情であり、また社会的な責任の所在をどうするのかというのは、社会秩序的な側面もあり、実際社会保障をどうするのかといった現実的な問題にも直結する。

よって障害者基礎年金や生活保護といった制度はあるし、裁判でも犯罪者に対して一定の情状酌量が行われたりするが、それは財政的にも社会的な心理にも余裕のある範囲内で行われるし、つまりは将来的に配慮されるべき人達は未だその社会保障の対象となれていないとも言える。

ニートは悪だ、犯罪者は悪だ、とそれは自然な感情であるとも思うが、より人道的、理性的に考えてみれば、彼らは配慮されるべき「弱者」でもあるかもしれない。けれど、そこまでの配慮は財政的にも心理的にも余裕がないと行われない。まして、人間形成論や心理学といった様々な観点から物事を見る知性も必要で、そこまでのレベルを大半の市民に求めるのは現実的に難しいと思う。実際日本社会が今だに責任論に終止していたり、社会保障が遅れていたりするのは、それだけこの失われた25年という状況における社会的な余裕の無さが深刻なのかなと思う。

(※一応付け加えるが、犯罪についての厳正な処罰は必須で、あくまで罪はきっちり裁く上で更生や未然の防止のためにも彼らの配慮が必要だということ)

よって、総合的に社会が十分に余裕を持ち、そして弱者を思いやる教養を社会が持ち合わせた時に、やっと弱肉強食の構造は打破されると思う。

その時、弱いものを食い物にしなくても、十分に余裕があればみんなで生きていけるからだ。(一気に表現が平易になったわ)

 

 

結局のところ、みんな劣っている者を攻撃したいのではなく、自分達が生き残りたいという生物なら当然の欲求に従っているだけなんだと思う。そして、十分にパイがないがために(本当はあるんだけど)、奪えそうな相手から奪っている。あくまで主眼は自分で、他の誰かではない。

これはいじめがいじめること自体に目的があるのではなく、いじめることで得られるストレスの軽減や快感の獲得といったことが目的であるのと同じ。そりゃ、みんな誰かをどうこうしたいではなく、自分のために生きているからね。

 

 

と、ここまで考えるとだんだんと答えが見えてくるような気がするんだけど、結論から言えば自分は劣っていることは本当は悪くないんだと思う。普通に考えて望んでそう生まれた訳でもないのにそこに責任を問うのは無理があるし。だから当然劣っているからといって自分を責める必要は一切ないし、むしろある意味貧乏くじを引いてしまったようなもので、社会的に守られるべきとさえ思う。

ただもちろん自分にできる努力はしたら良い。かといって相応の努力をしてもダメならそれは本当は責任を問えることではないと思う。今はまだ社会にそこまでの余裕がないから、実際は責任を問われるけど。それと一方で、努力できる人や結果を出せる人ももちろん良い。もっと大きく言えば、有史以来のように人間同士で潰しあってないで将来的にはもっと協力できるようになって行けたら良いと思う。これまでは、貧しさが争いを生んできた訳なのだから。

 

 

と、ごちゃごちゃ書いてはみたものの、結局ここらへんは分かる人には分かるし、分からない人には分からない話かと思う。何故なら「理解力」とはそもそもの前提に"理解したいと思うか"が必要だから。(人は意思がないと行動できない)

よって冒頭に戻るが、この立場に立って考える必要があったり、考えたいと思う何らかの理由がない限り、到底理解は求められないし、むしろ理解を求めようとすればある種社会的意見にアンチテーゼを唱えるようなもので、痛い目に遭うだろう。(社会的制裁を受ける)

まあブログとかだと気軽に書けますけどね。

ただ、表には出さなくとも、自分なりの何が正しいかの答えを持っておくことは当人が生きていく上では大きく意味があると思う。そのためにも、人には話さず、しっかり自分の考えを守っていて欲しい。例え多くの人が否定してくるであろう考えだとしても。それに、思想の自由は憲法でも守られていますから。

 

(終わり)

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