ぼんやりブログ。

ゆるーく生きていたい。考えたことなどを書いていきます。

正しさについて考える

人の世の中には無数の正しさが存在する。

”人の”とつけたところには大きな意味があって、要するに自然界には元々正しさは存在しないからだ。

自然界という大きなものが最初にあって、そこに人間が生み出されてきて、その人間が生存戦略の中で様々なものを生み出す過程に「正しさ」というものを生み出した。

 そういう風に自分は考えていて、そう考えると正しさとは「人が生きていくため」という目的のための「手段」ということになる。

実際、様々な社会規範や法律などを考えてみれば、世の中に秩序を作って人の世が良くなるよう、つまりは人という種の生存確率が上がるような方向性にあるとすると個人的には合点がいく。

 

自然中心

世の中のほとんどの人は人間を中心に考えているからなかなかこういう人が後で自然が中心といった考えは受け入れられないと思うし、下手をすると危険思想の一種と捉えられてもおかしくない。(事実として理解するのとそこから物事を述べるのはまた違う)

そもそもそういう風に考えてみる必要がなく、これはどんな生き物でもそうだと思うが、「意思」という脳からの指令が生まれないと行動をとることはできないので、その意思を生み出すための「必要性」というものを感じることが無ければ、一生それを理解しようと思うことは無いと思う。

 

逆に言えば、一度でもこういうことを考えたことがある人というのは、何らかの形でその行動に至る経緯があり、それを考えようとする「意思」が生まれた。

恐らくは「正しさ」によって悩んだりしたことがある人が大半なのかと思う。

 

正しさは立場に起因する

正しさというものが生存戦略のための手段だとすると、社会的な生き物である人間ではその社会における「立場」に正しさが付随するように思う。

例えば(全く知識はないが)政治の世界でも、その人の利害関係やおかれた立場によって支持する政党(正しさ)も変わるだろうし、何らかの問題について語るとき、どの立場から論じるかで正しさは異なってくると思う。

このことについても、正しさが生存戦略のためのものだとするとなぜ立場によって支持する主張が異なってくるのかに説明がつく気がする。

 

よくあるのが日本社会の教育や労働の問題点について論じる時、保守的な意見とそれに対する意見の双方がぶつかったりすること。

恐らく後者の方が正しい場合が多いものの、ただ既得権益というか、広く社会に根差しているのは前者の方が多く、後者の意見が正しいとなると不都合が生じる人が少なくない。

となれば、自分を守るために都合の悪い意見は否定しようとする。

もしかすると中には自分たちの主張の方が間違っているとわかっていて、それでも自分や家族などを守るために正しさを主張せざるを得ない人たちもいるかもしれない。

いざ自分ももし同じ立場であったとしたら、自分が間違っていると分かっていても認められない場合もあるかもしれない。

こういうことを考えると、正しさは立場に起因するという考えに合点が行った。

 

自分は間違っているのか

自分は間違っているのか、と考えてしまう人というのは、恐らく生きづらさを抱えている人が多いと思う。

ここで、先ほどの「自然界うんぬん」と「正しさは立場に~」を合わせて考えると、あなたが絶対的に間違っているということは100%無いと思う。

だって正しさとは人が必要でもって生み出したものでしかないのだから。

 

強いて言えば、世の中的には不都合なところもあるかもしれない。

細かく言えば、不都合な状況やタイミングがあるのかもしれない。

まあ確かに、正しくないとされやすい性質をもって生まれてきてしまったことは事実かもしれない。

でも、それも決して絶対的なものではなく、状況やタイミングが変われば違うし、もっと言うとむしろあなたの方が正しいとなる可能性も少なくない。

典型的な例で言えば地動説だってそれが正しいとされない状況を経て、今では正しいとされている。

 

いつだって世の中は正しいものについて出遅れてきたんだと思う。

女性差別、性的マイノリティ、発達障害、精神医学、色々な領域で過去認められず、長い時間とその領域で戦ってきた人たちの積み重ねを経て認められるような社会に変化してきた。

でも、そのことからも結果的に間違ってなかった訳で、ただ人の世の中がそこまで成熟できていなかったってだけ。

 

マジョリティを優先的に生かせるようにして、まずは人の種としての生存確率を高めてきた。それが戦後の世の中になって生活に余裕が出てきて、人全体として余裕が出てきたタイミングで配慮の幅が広がっていったのだと思う。

それに、色々な人が生きられる社会にしていくというのは人の生存確率を上げる上でも理に適っていることで、きっと人が生きようという方向性にある限り、これは自然と取り入れられていくのではないかと思っている。

だから、きっと今色々な理由で生きづらさを抱えている人も、ゆくゆくは社会の成長が追い付いて認められることになっていくと思う。

これまでの社会の流れから、自分なりにはこう考えている。

 

だから、大きな視点で言えば誰も間違ってなんかいない。

そもそも間違いって何?

それを間違いとする状況があるのは分かる。

実生活上の支障は確かに問題だとしても、それをどう解決するかに悩むことはあってもあなたが間違っているかどうかに悩む必要は一切ないと思う。

誰かは間違っていると言うし、誰かは間違っていないという、それだけのこと。

確かに人によって生まれ持った性質が正しいとされやすいかされにくいはあると思う。

でも全く正しいというものもないし、全く間違っているというものもない。

これは世の中の都合の問題。責任は個人ではなく社会そのものにある。

人一人の力でどうにかなるものじゃないことは確かかと。

 

 

とまあ、ここまでを踏まえた上でいざ実際の目の前の課題をどうクリアしていくかが問題なんですけどね。。。笑

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