ぼんやりブログ。

ゆるーく生きていたい。考えたことなどを書いていきます。

生きにくさと孤独は比例してる気がする

生きにくさを抱えている人で同時に孤独を抱えている人は多い気がする

生きにくさも要するに社会の中でうまくやっていきにくい=社会不適合な訳で、となると社会=他者との関わりにおいても難しさを抱えているのは腑に落ちる

1つの問題が複数の問題を引き起こすのはよくあること

  

生きにくさと孤独が相まって良くないこととすると、その課題について考える味方がいないこと(自分だけで対処しないといけないこと)があり、この”自分だけ”というのがなかなか厄介だと思う

自分のことは客観的に見ることが難しいので、気づけない部分があったり思い違いを起こしかねない

 

また、孤独そのものは精神衛生的によくないので、その影響も大きい

誰にも理解してもらえない、味方になってもらえない、話もできない、そういう辛さは積み重なるととても普通ではいられなくなってしまう

 

テンションが低い人、異様に人にびくびくしてしまう人、色々あるけれど、ざっくり言うと難しいことがあって、そこから普通ではいられなくなったのでは

普通を普通にできない人のことを普通の人は理解できないし、そもそも理解する必要がない

この「必要がない」というのが実はかなり大きくて、生き物全般脳が必要性をもとに行動をとっているとすると、「必要がない」ことはそもそもしようと思わない

つまり、理解する必要のない人に対して理解しようという行動には至らない

これは一層当事者の孤独につながっていく

 

中には多くの人の共感を得られるような文章をかけたり何かのきっかけがあって認められるケースもあるが、それは一部であって、誰にも知られず、誰にも理解されず、人知れず難しさを抱えている人が多いと思う

そしてそういう人の場合、むしろ周囲からは批判されたり追い打ちをかけられるようなことが多いのでは

世間というものは社会的に理解・支援の対象となっているものには大きな協力をするが、そうでないものに対してはとても厳しい面がある

例えばどこにいるとも知らない「恵まれない貧しい国の子供たち」へは多大な慈しみと協力を行うが、同じ日本にいる不器用で冴えない人間に対しては社会の害悪とも言わんばかりの批判を浴びせる

し、それを正義としている(もちろん全員が、という訳ではなく概ね傾向として)

「きもくて金のないおっさん問題」というフレーズをこの前初めて目にして、これは本質を突いているしとてもシビアなことだと感じた

おおむね当事者にならない限りこのことについて考えることはないだろう

 

社会の理解や認知がまだ進んでいない軽度発達障害心理的な課題含めこういった問題について、おそらくあと数十年するとより理解が進んでいくとは思うが、それまでは迫害は免れないんだろうなと思う

そしてその時、今まで批判してきた「世間」も手のひらを反し、一方その時まだ社会の理解を得られていない課題を抱えた人たちが依然批判の対象になっているんだと思う

(犯罪者心理等は一番後になる気がする)

 

結局のところ、人の意思や行動はどう生まれるのか、どこに責任の所在があるのか、というところなんだと思う

発達障害についても本人の”意思”ではなく脳機能によるものと認知されることで責任の所在が変わった)

 

あらゆることについて、なるべく早く社会の理解が深まることを期待したい

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