ぼんやりブログ。

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職場の飲み会が苦手な理由が少し分かった気がする。

先月末に職場で飲み会がありました。

前々から飲み会って何話せばいいかわからなくて苦手だったんですけど、今回その理由と、自分が犯している過ちについて気づいた気がするので、それを書いてみようと思います。

 

これ結論から言うと、「本音と建前」の使い分けをしていない、というところなのかなと。

まず、自分は聞かれたことや振られたことについては”素直に”答えていました。

趣味や、興味があること、その他些細なことなど。全て正直に。

しかし、「本音と建前」という観点から考えると、全てを”素直に(つまり本音で)”話すことはよくないことなのかなと思います。

もちろん、それは暗黙の了解なので、内心そう思っていたとしてもはっきりそう言う人はいないでしょう。(明示的になると”建前”としての効果がなくなってしまう)

 

全てを本音で話すことが良くない点としては、当然”本音”の部分では人ぞれぞれ違いますので、その違いが露呈してしまうからです。

そうすると、本来的に何かの趣味の集まりなどとは違って”異”なる人々が集まる「職場」という環境において、各々が本音で話せば協調がとりにくいからだと思います。

言うなれば、ガンプラ好きな人と鉄道好きな人とプロレス好きな人が一緒に飲んでいるようなものかもしれません。

また、趣味が違うだけでなく、社会的に「利害」といったような「立場」の問題があります。

これが一番根深い問題なのかなと。

 

日本では「異」なること=「敵」という風潮が強い気がします。

それはやはり、村社会という文化的背景か、生き物としての本能か、「違い」というものは基本的に避けたいものなのかなと。

「和をもって貴しとなし」とある通り、協調、共同、和、といった文化がとても強いと思います。

表面的な「和」を強要する一方で、裏では一部ドロドロした人間関係があると思うと皮肉なことではありますが。

(「和」の文化の理念自体は他国にない日本人の良さであると思っています。

その弊害としてのドロドロがやるせないところではありますが。)

 

よって、社会秩序のためにも、人間関係を円滑にして不要ないざこざを避けるためにも、「建前」によってその協調を保ち、”異”なる「本音」は心の中にしまっておく、という文化ができたのかなと思います。

ここまで考えると、その本質や目的が見えてくるような気がして、「建前」を使うことが単に人を騙したり、自分を偽る不誠実な行為ではないんだなと思えてきました。

むしろその必要性や有効性から、その使い分けをしてこなかった自分の落ち度が理解できたような気もします。

 

全部本音で話したほうがきっと相手も信用できるだろう、との思いから偽りなく本音で会話をしてきたつもりでしたが、むしろこれまで色々な人に不要な気を遣わせたり、ストレスを与えて来てしまったかもしれません。

例えば自分では「違い」に抵抗がないので、素直に多様な意見などを聞こうと思っても(論破してもらっても全く構わない。むしろ勉強になるのでありがたい。※非生産的な批判は別)、相手によっては「合わせないといけない」というストレスを与えてしまっていたと思うからです。

ここら辺はそうだよな、本音と建前の国だよな。と再認識しました。

 

本音と建前は誰かが教えてくれるものではないため中々自分で気づけないことでもあるのですが、これまでの自分を反省し、今後の振る舞いを改めようと思いました。

 

まあその一方でちゃんと話すと分かる人には分かってもらえて、むしろ信用してもらえたりしていたので、良し悪しでもあったのかなとは思います。(彼女がいた時なんかは、今思うとそういう部分で信頼してもらえてたと思う)

「本音」であろうという誠実さに関しては持ったままで、しかし社交の場や状況に合わせて「建前」をうまく使う、という臨機応変さや柔軟さをこれから身につけて行きたいですね。

 

以上、題目に関しての自分の考察でした。

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